2006年04月23日
2006年04月17日
祝島女性の気質 その1(祝島ネット21会報)
4月、今年もまた新入生を迎える季節となりました。
みなさんの職場の新入生はいかがですか。
私ども建築関係の仲間内では近頃、社会人としての気構えのない若者がふえたということをよく耳にします。学生の延長で 仕事は教えてもらうもの、与えられるものだという意識で会社にきている人が多いようです。特に建築業界は技術はぬすみとるものというような古い体質がいまだに残っている世界ですので彼らのような意識ではとうてい長続きしません。
いまどきの新入生は自分で調べる前に人に聞き、ネットでさらっと情報を得、物事の表層だけをとらえて、理解した気になる。
そして本来 家庭や社会から学ぶべき常識や道徳を知らない人がふえてきたように思います。
自分の立場をわきまえず、上司やクライアントが何を望むか、他人のことには興味がない、おいおいこんなことは子供のときに親からしつけられることだろうと嫁姑の戦いのようになる、
なんともむなしい気持ちだけが残り上司を落ち込ます新入生達(すいません、愚痴です)。
そんな新人達には祝島女性の仕事ぶりと立ち振る舞いを見習ってほしいと思います。
2006年04月16日
祝島の民家 その2(祝島ネット21会報)
年明けすぐに大阪市では初めて認可された新型特別養護老人ホームの地鎮祭があり出席しました。
地鎮祭は建物を建てる前に土地の神様をお祀りして敷地を清め工事の安全を祈願する祭です。
設計者にとっても実施設計が完了し、工事監理が始めるけじめのときでもあり、神主さんからお払いを受けると責任の重さに気持ちがひきしまります。
2006年04月14日
太平洋戦争と祝島 その1(祝島ネット21会報)
終戦から60年を迎えテレビや新聞でも様々な視点から、「戦争」が取り上げられていますが ここでは島のHPで話題になった光工廠について書きたいと思います。
70をすぎて国弘君の気の長-い指導のもと、パソコンを習い始めた父に祝島の歴史について記録してほしいと頼みました。
それからしばらくして「痛恨の八月十四日」というすごいタイトルの文章が届きました。
父が学徒動員で出動していた光工廠の思い出を書いたもので、その冒頭には“この痛恨の出来事を記憶の外に葬りたい。
しかしこの日におきた事実を真正面から見据え、戦争を知らない若い世代への平和のメッセージとして語り伝えることも戦争を体験した者の義務であろう。”とありました。
2006年04月13日
宮本常一の世界
祝島の民家 その1(祝島ネット21会報)
前回祝島の家屋にふれたので今回は建築的な視点から島の歴史を考えてみたいと思います。
木村先生が紹介した平さんの石垣にはとても感動しましたが、それ以上に興味をひかれたのが平さんの山小屋です。
内部の詳細な写真と資材の調達の方法が書かれている記事を読んでここには「民家」の原型があると感じました。
庶民の暮らす建物は「民家」と呼ばれ各地方の気候風土にあった個性的な形と文化を継承しています。
民家の工法は単純明快で奇をてらうことなく四角四面の納まりを組み合わせて構成されています。
伝統的な木割、規格化された部材や仕口の組み合わせにより空間に秩序が生まれ、プロポーションもきれいです。
残念ながら都心では防火的な制限があり木造の場合、主要な構造部である柱・梁等の構造材をそのまま意匠に使うことが難しく耐火被覆のためにボードやモルタルなどで囲ってしまうことになり、木造本来の魅力が薄れてしまいます。
さらにこの十数年で多くの木造建築が機械化(プレカット)され、きちんと在来工法の仕口を刻める人は少なくなりました。
仕事も専門分化し、ハウスメーカーの住宅などは材料をメーカーから支給され下請け業者(大工)がプラモデルのように組み立てるだけというようなものもあります。
これらは「民家」の特徴のひとつである“技術の継承”という意味をも失っています。
東大の生協?で販売している東大のボールペン
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2006年04月12日
明治維新と祝島祝島ネット21会報)
関西で仕事をしていると山口出身ということで話のとっかかりに明治維新の話をされることが多く その関心の大きさには驚かされます。
同級生の松村君(こんなあらたまった呼び方はこそばゆい)の話では私たちが教わった先生方もそれぞれの身近な維新史を語ってくれたそうですが 正直よく覚えていません。
松村君曰く「女子はそのたびにいちいち感動していたくせに何も覚えてない、いいかげんなやつらじゃ。」と・・。
そんな私も担任だった中尾先生が卒業式の日、いずれ親元を離れて島を出ていく私達に話してくれたことだけはよく覚えています。
広い世界でたまたま祝島に生まれ、両親や教室にいる仲間と出会ったこと、先生自身がこの島に来ることになった縁の不思議と大切さを話された後、吉田松陰の永訣の書といわれる手紙の一節を詠んでくださいました。
“親思うこころにまさるおやこころ けふの音つれ何ときくらん”
はたして先生の意にそう生き方ができたかどうかはわかりませんが、このとき聞いた言葉がいつも自分の進むべき道を示してくれたように思います。
2006年04月11日
業祠と古代航路(祝島ネット21会報)
会報8号で村上磐太郎氏のことを「歴史の先生でもなんでもない伊陸(正しくは伊保庄)に住むお百姓さん」と書きましたが、集めた資料の中に同氏の調査したものがいくつかあり、略歴を見つけ大変失礼な紹介をしていることに気づきました。
村上氏は柳井の市史編纂委員として活躍された人で伊保庄には資料館まであるそうです。
さらに私が勤務している事務所のクライアントの叔父にあたる人だというこということもわかりました。
その姪御さんのお話では村上家は昭和の初め頃まで伊保庄で村上酒造という造り酒屋を営んでいて、その蔵を資料館にしているとのことでした。
杜氏として祝島から村上酒造へ行かれ、ご存知の方がいるかもしれませんね。
(このクライアントとの出会いは国交省から出向に来ていた方からの紹介だったのですが、私が(祝島ネット付)名刺を出したとき、どこの出身ということからクライアントが柳井の出身で柳井高校の地学部在籍のおり島にも来たことがある上、遠い縁戚関係にもあることがわかりました。
ちなみにクライアントの兄さんは柳井高校→東大→内閣府→国交省○○局長の超エリートです。)
2006年04月10日
神舞 その1(祝島ネット21原稿)
今回は やはり神舞のことを書かないことにはおさまりませんよね。
しかし神舞のこととなると書きたいことや記録に残しておきたいことがたくさんあってとても紙面が足りそうにありません。
それでなくても毎回、国弘君からは長すぎるとお叱りを受けているのでここでは今までみつけた資料の中で特に興味を引かれることだけ書くことにして残りはネット21の祝島日記にでものせてもらうことにします。
2006年04月09日
万葉集と祝島(祝島ネット21原稿)
先月、明日香村・島庄遺跡で飛鳥時代屈指の豪族・蘇我馬子の邸宅跡とみられる掘立柱の遺構が見つかったとの報道がありました。
『日本書紀』によると蘇我馬子は物部氏を滅ぼし、聖徳太子の十七条の憲法制定、遣隋使派遣にかかわったとされています。
これに対し梅澤恵美子氏は 著書『額田王の謎』の中で蘇我氏と物部氏の関係について大変面白い推理をされています。
犬猿の仲であるはずの蘇我宗家が実は物部氏の財力によって成り立っていたというのです。
さらに額田王が卓越した宗教的権威をもった物部氏の巫女であり,それゆえ天智天皇は天武天皇から額田王を皇后として迎えない限り、政権を手にすることができなかったのではないかと考えて額田王の万葉歌に秘められた真実を解き明かしていきます。
全ては物部・蘇我・天武と天智・藤原・持統の結び付きの対立により起こり,壬申の乱で政権を奪った天武天皇が『日本書紀』によってそのことを正当化し,正当なヤマト王朝の子孫である物部氏を歴史から抹殺してしまったと述べます。
近年、『万葉集』は文学書としてだけではなく、何か政治的意図をもつ書ではないかという見直しが始まっていますが、梅澤氏の本を読んでいくうちに “万葉集が単なる歌集ではなく、歴史書、あるいは暗号書である。”という思いがますます強くなります。
2006年04月08日
「神功皇后 上下」 田中繁男著
古代航路と祝島(祝島ネット21原稿)
民俗学者・宮本常一氏の著書に“われわれの体験してきたことは、生まれてから今日までのほんのわずかの期間にすぎないがその体験した文化には長い歴史と広いひろがりがある。”という印象的な言葉があります。
最近 平さんの石垣が話題になっていますが、宮本氏はその著書の中で石工の話に心をうたれるものがあるとして “平凡だがこの人たちはこの人なりにひとつの人生観をもっている。だれに命令されるでもなく、自らが自らに命令する尊さをこの人達は自分の仕事を通して学びとっているようである。権威のまえには素直であるが権力には屈しない。そういう人間的な生き方をもってみるとこの人たちに恐ろしいのは権威であり真理だけであるようだ。積み上げられた石の一つ一つの中にはきっとそういう心がひそんでいるのであろう。そしてその総和が目のまえにある「かたちのある文化」なのだ、と思う。”と書いています。
2006年04月07日
屋号(祝島ネット21会報)
後先が逆になりましたが前回の「シコナ」に続き今回は屋号の話です。
下記に記載の屋号は前号でふれた梅光女学院・岡野先生、県史編纂室・金谷氏が平成6年の屋号調査に来られた時の報告書に加筆したものです。
報告書は私の家に保管してある江戸後期の寺子屋の手習い手本に書かれた島の屋号を基に橋部さん達から概要を聞かれたお二人が島の古老に聞き取り調査を行いまとめたものです。
ここに書かれた1軒1軒にそれぞれの歴史があり物語があります。しかし個人で知っていることには限界があるのでご存知の方があれば是非会報に書いて下さい。
2006年04月06日
しこな(祝島ネット21会報)
先日私の父が「ショーヤン」だと言ったことから「ショーヤン」という呼び名について当会のメーリングリストでいろいろな話を聞かせて頂きました。私自身は日常的に使ってきた「ショーヤン」の意外な反応に戸惑いましたが、今回はその愛すべき「シャーヤン」というような島の“シコナ”について少し考えてみることにします。
すいさんか(祝島ネット21会報)
残念なことに今年3月、祝島小学校が休校になりました。
祝島小学校は明治8年に創立開校し,大正・昭和・平成と時代を経て平成15年3月まで多くの卒業生を送りだしてきました。
創立百周年を迎えた昭和50年1月に発行された記念誌には歴代卒業生の思い出が綴られ、都会の学校では考えられないようなのんびりした学生生活が書かれています。
特に生徒数の多い時代は活気があり,賑やかな子供達の声が今にも聞こえてきそうです。
そんな祝島の学校の歴史の中でも特に興味をひかれるのが明治35年に設立された祝島水産補修学校です。
2006年04月04日
善と悪(祝島ネット21会報)
前回,太郎万・次郎万と石丸左馬頭が善人か悪人かと問いましたので、ここで人間の善・悪ということについて少し考えてみたいと思います。
昨年のNHK大河ドラマは前田利家とその妻の物語「利家とまつ」でしたが、信長・秀吉・家康の3人からもっとも信頼された前田利家も一方では一揆勢を生け捕りにし磔や釜茹でにするという残忍な一面を持っていました。
百万石祭りで賑わう金沢では「信長によって東海から送りこまれてきた殺戮者を百万石祭りでなぜ祝うのか」という疑問を投げかけた学者もあったと聞きました。
戦国時代という特殊な背景があったとはいえ利家にもドラマの中では描かれなかった悪人ともとれる別の顔があったようです。
権力闘争のあと(祝島ネット21第3号)
青森県において1992年から始まった三内丸山遺跡の発掘調査で,縄文時代前期から中期の大集落跡や平安時代の集落跡、中世末の城館跡の一部が見つかりました。
これは,歴史の常識を覆す大発見で,一大文化圏が「みちのく」にあった証しとなりました。
私達の習った歴史では,「みちのく」は蝦夷(えみし)の住む野蛮な地であったということですが,その文化は密やかに伝承されてきたのでしょう。
坂上田村麻呂によって胆沢城が築かれて以来,大和朝廷に支配され,この地の歴史が抹殺されたように,歴史はその時々の勝者の論理によって塗り替えられてしまうものです。
2006年04月03日
堤(祝島ネット21会報第2号)
民俗学者の宮本常一氏と同じように祝島の堤のことを小説家の石牟礼道子さんが書いておられます。
石牟礼さんといえば水俣。市内の一主婦にすぎなかった石牟礼さんは公害発生を機に小説家としての道を歩み始めました。
祝島に原発の話が持ち上がるまでは水俣の人々が戦い続けることになった負の遺産を同様に自分達につきつけられるとは思いもせず,忘れた頃に放映される水俣闘争をただ対岸の火事のように見ていました。
企業城下町として繁栄する水俣とその被害を受け続けた水俣市民の葛藤はそのまま原発問題と似たような側面を持っていて,水俣の問題は私にとって対岸の火事ではすまなくなりました。
2006年04月01日
はじめに(祝島ネット21会報)
祝島はとても不思議な場所です。古くから海上交通の要所として知られ,神武天皇・神功皇后や除福伝説などの伝承があり八幡信仰や株内制度など他の瀬戸内海の島々とは異なる独特の文化を育んできました。